フロイトとラカン メモ
実は心理学が好きで、生物学の中でも分子生物学、細胞、遺伝子を学べる学部を志望したのだ。
心理学も突き詰めれば、生物学に繋がる。
感情は伝達物質、ホルモンによって左右されている。
生物は外界との相互作用を行っている。情報を受け取り、体内で変換していき変化する。
分子生物学はその本質の仕組みを学ぶことができるのだ。
さて
心理学の中でも熱狂的なファンの多いラカン。難解だが、学問チックで面白い。
ちょっとかじったメモ。
欲望は常に他者からやってきて、人間を捉える。
ラカン「人の欲望は他者の欲望である。」
無意識とは他者の欲望を自分のものに作り替える過程において形成される。
さまざまな選択や決断は、他者から与えられたもの、伝達されたものにすぎない。
人は他者の欲望を抑圧することで、その上に自分の欲望を築いてゆくのであり、抑圧された他者の欲望は「無意識」を構成し、無意識において存続する。
無意識とは他者の欲望の場である。
また他者のやむことなき語らいの場である。
バルト(急に出てきたw)は人間が人間を自覚するための原点に還って、日本の街中に身をおいた。
そこで異国人の「線のような目」として再発見した。
ありえないほど普遍的な他者から自分がどのように見えているか。
異国を旅するということは、そのような他者に出会い続け、自分をどんどんつまらなくしていことである。
「ーの線」は人がそこから自分を観るところである。他者から自分を観るという事。
元の自分は常にいない。「ーの線」と「対象a」は普遍の他者と個別の自己の間を繋ぐ。
鏡像を自己とみなし、それへと「同一化」することで、乳児は未完成の身体的統一を先取りし、自我が形成される。
フロイトは「外的(現実的)な偶然を信じるが、内的(心理的)な偶然性は信じない」。
=ラカン「象徴的決定」
どんな欲望を持たない主体は、そもそも発話することすらない。
言語活動に入った者が、生命の法則とは異なった法則の下に入っているこということを意味する。
フロイト「自我は自分の家の主人などではあり得ない。」
エディプスコンプレックス(父親に対して敵対すること)は、自然界にある人間が、自然界の外部の他者の感情を伴いつつ、受け取る装置である。
他者の欲望は、存在をあるがままのカタチにする力のことである。
マルクス「人は社会を鏡として生まれてくる。」
人間が世界の中に自分を位置づけ、自分の中に世界を位置づける。
人間は常に何かに向かって開かれた存在である。
ラカン「人間は言語に寄生されている」
人間は言葉の乗り物にすぎない。
文字や書籍、メディアを通じて、人間が持つ能力を外在化していった。
なんとなく感じて欲しい。ちゃんと理解したい人はラカンの本を読んで下さい。
心理学はこういう世界なのだ。
なんと気持ち悪いことでしょうw
面白さを感じた人は・・・
おめでとう、変態です。
おわり。